昭和49年01月13日 十三日会
値打ちがあると言う、価値があるものと。私は信心ほど価値あるものはないと思うです。価値あるものにその身から、その心から打ち込んで行けれると言う事を、大変有り難いと心得て信心しなければいけません。価値あるもの。それはそうです、信心の徳と言うのは、あの世にも持って行け、この世にも残しておけると言うほどしのものですし、又信心を頂いたら、今朝の御理解から頂きますと、心の中に神徳を受ければ、心配はないと言われるほどしのものなのですから。
只信心が何か稽古と言うか、女の方が、花の稽古をしたりお茶の稽古をしたり。男の方が柔道やら、剣道やらの稽古をしたりという様な物とは、根本的に違う事をお互い、稽古させて頂いておるんだという事を、分からなければいけないと思う。それには私は信心が、好きにならなければならない。そんなに値打ちのあるもの、価値のあるものだから、一つ一修行させてもろうて、身につけようと言うだけではしるしい。それが愈々有り難いもの楽しいものと言う、私、おかげを頂かなければ信心が上達しないと思う。
例えば食べ物の中にでも、美味しいけれども、一つも栄養にならないという様な食べ物があります。ただ信心すればおかげを頂くから、有り難いから信心しておると言うのは、栄養にならんけれども、美味しいから食べておるだけじゃないでしょうかね。それでは価値がないのです。合楽にお参りをしなさい、不思議なおかげを頂く。だからお参りをしておると言うのであったら、価値はないです。値打ちはないです。そりゃもっともっと、私はおかげを頂ける所があるかも知れんと思います。
言うならば美味しい食べ物、けれどもそれは血にも肉にもならない、栄養にもならないと言う様な信心を、それは一生しておったって価値の有る信心とは言えません。価値の有ると言う事はです、あの世にも持って行け、この世にも残しておけると言うもの。この世でも自分の心の中にです。安心の心が広がって行き、喜びが有り難い信心生活が出来れる。どの様な場合であっても、段々驚かんで済むほどしの力が出来て来る。
そういう信心が身に着いて行ってこそ、初めて価値ある信心だと言う事が言えると思うです。価値あるものを目指さなければいけません。二、三日前十三時ショーがあっておりますのに、歌舞伎俳優の中村勘三郎と、勘九朗親子が出ておりました。そしていろんな修行の辛さ楽しさといった様なものを語らせるというものだったんです。それに勘九朗に本当につい此の頃まで、勘九朗坊やと思うとったら、こんなにも成長されてと言うて、アナウンサーの人が話し掛けておりましたがです。
もう立派な俳優です。今年から大学だそうですけれども、大学に行く勉強と芸事の稽古というのが、一つになって行かなければならない事を、工夫しておると言う様な事を言ってましたけれども。どうですか修行の時に、やっぱり辛い事は辛いでしょう、きつい事はきついでしょうと言っておりました。そしたら不思議そうにして、その質問に対して勘九朗が言っておる事なんです。僕はひとつも苦しいとか修行と言った様に思うた事が無い。好きで好きでたまらんのですからと言ってます。
そりゃ最近のあの人の歌舞伎評論家が、一つの驚異的に評しておりますね、素晴らしいち言うて。最近女形の勉強をしてるんですけれども、そりゃどういう難役でも、見事にやってこなしておると言うんです。子供っぽさがない。実に堂々たる芸だという訳なんです。そういう芸と言うものがどこから生まれて来るかと。勿論横のお父さんの勘三郎が言ってました。この人はどこを切っても、役者の血しか出ないのですからねと言ってました。お爺さんが、あの名優と言われた、菊五郎のお爺さんにあたる。
お母さんが菊五郎の娘ですから。それから勘九朗のお父さんが、名人と言われた中村歌六なんです先代の。だから名優名人と言う人を爺に持ってるんです。お母さんは、菊五郎の娘。お父さんは歌六の息子という訳です。ですからどこを切っても、役者の血しか出てこない。だからこの人がやっぱ好きだと言うのは、そういう所にあると言っていましたけれどもね。お互い合楽にご神縁を頂いたのです。これは私の場合でもどこを切っても、私は信心の血しかないんです私には。
これは私の知っておる婆逹、両家の母方、父方の婆達の信心から、それを思うのです。生まれた時から、神様のおかげでと言う様な中に生まれて来ておりますし、それこそ何一つ頂くでも、頂きますを言わなきゃ頂けないという中に生まれて来ております。それでも、私の場合は、ただ美味しいから食べてきた。栄養にも血にも、大した事にはなっていないんですけれども、一度心の眼が開けて来て、一度信心に心が向かわせて頂いた所からです。いわば血になり肉になりしてきて。
しかも今から考えて見て、あの一番修行の激しかった時代の時が、私には大変な嬉しい事であり、有り難い事であり痛い事は痛いけれども、有り難いという答えが必ず出ておったと言う事なんです。そりゃ叩かれて痛くないと言うのは嘘です。痛いです。けれどもそれが有り難かったと言う事なんです。やはり私は子供の時から信心が好きだったと言う事です。拝む事が大変好きだったと言う事です。ですから皆さんどうでも一つ、信心が好きにならなければいけません。
例えば苦いとか臭いとかと言うものでも、栄養になるなら眼を瞑ってからでも飲むと言うでしょう。又食べると言うでしょう。所が臭いものでも、苦いものでもです、好きになったらです。眼を瞑らんでそれを有り難く頂けれる道があるんです。例えば苦ごりなんかは好きな人は、とても美味しいと言うでしょう。いくら臭いと言うても、支那朝鮮の方逹はニンニクが入っておらなければ食べられんと言う位に美味しい物にしてしまっているでしょう。はぁそら臭かそげな苦か物は食べん。
それでもそれが栄養に成るなら仕様がないけん、眼を瞑って食べよう。例えば難儀に取り組むでもそうです。それがしょうこと無しの修行であっては、大した事はありません。修行と考えた事がありません。只好きですから有難くて好きで稽古をしておる。人が一時間稽古するとこは、二時間稽古する事が楽しい。だから私は誰よりも上達が早いと思う。好きこそものの上手なれと申します。
信心も一つ好きにならにゃいけません。寒修行が始まってから怠慢という事について、私自身非常にそれに取り組ませて頂いておる事がございます。こんなに見やすい事が、今までどうして出来なかっただろうか。結局怠慢だったなと思うておる事が二、三ございます。昨日でしたか、高橋さんがある信心友達に会って、あんた朝の御祈念に参ってこじゃこて、今寒修行がありよるばい。それが私は時間にはきちっと目が覚むるばってんが、家内が止むるち言う。
だから神ながらという風に、それを頂いてるんです。お参りしようと思いよったら、障害が出来た。はぁこれは、神様が参らんでよかち言いござるとばいなという様な頂き方がです。合楽の信心の中にある事です。それを間違えた神ながらだと私は思います。是はねその事は、神ながらかもしれませんけれども、そういう頂き方は必ず怠慢の元になるです。これは私が体験して来てます。信心には怠慢な心が一番信心を阻害致します。信心を引き止めます。それから先は伸びません。
それではねただおかげを頂くから、御神縁を頂いておると言うだけに過ぎません。価値あるものに愈々私共はして行かなければ相すみません。それにはどうかして信心が好きにならにゃいけません。歯を喰いしばっての修行じゃなくて、それこそ有難うして有難うして、合掌して受けて立って行くという信心を身に着けて行かにゃいけません。そりゃ寒くもあります。眠くもありますけれどもその事がです。楽しいのであり有り難いのである。ちょっとした口実で如何にもそこに。
もっともらしい答えを出して信心を疎かにして行く人があります。それが怠慢の始まりです。信心には怠慢と言う事を、ひとつ厳しく自分の心の中に頂いて、その人なりの信心、小学生は小学生なり、大学生は大学生なりでいいのですから。誰の真似をしなければならんという事はないですけれども、それぞれの信心の程度の所で、おかげを頂く。何と言うても一つ信心が、先ず好きになると言う事。信心が好きになると言う事は、修行が好きになると言う事なんです。
どうぞ。